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まちを歩けば
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 聖地エルサレムの
    素顔に出会う
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まちを歩けば棒にあたる
聖地エルサレムの素顔に出会う-page03
●聖地エルサレムの素顔に出会う15
「オアシス湧水紀行」


2002.9.8
 エルサレムの夏はもう過ぎ去ってしまったようだ。肌を焦がすように強烈だった太陽は鳴りを潜め、風には秋のようなさわやかさがある。暑くて寝苦しかった夜は10日もなかった。暑さを覚悟していただけに肩透かしを食った感じだ。夏を求めてエルサレムから車を駆って一気に標高を下げ、死海に程近いヨルダン川西岸のパレスチナ自治区エリコに向かった。
 エリコの入り口には相変わらずイスラエル軍兵士が陣取り、町を封鎖している。一時は観光で栄え、カジノもあったエリコは、人影もまばらでゴーストタウンのようにひっそりとしていた。観光名所に通じるロープウェーも映画セットのように静止している。ただ、流石に暑い。乾燥しているため強烈な暑さは感じないが、30度以上はあるだろう。夏は山を下っていたのだ。
 砂漠の只中にある町だが、湧き水が町をくまなく潤し、砂っぽい背景に鮮やかな緑がコントラストを描き、オアシスならではの豊かな風景が広がる。美味しい果物で有名なエリコは、約1万年前から人が住み始め、要塞化された世界最古の都市である。標高もマイナス350メートルと世界で最も低地にある。水路には清水が絶え間なく流れ、その脇には打ち捨てられた数百年、数千年以上も前のものとみられる民家跡が点在する。今日こそは、水路をたどり、水源を発見しようと意気込み、車を乗り捨てて歩き始めた。
 水に手を浸してみると、それなりに冷たい。スイカや野菜、ビールを冷やしたら、さぞかし旨いだろう。水路にはところどころに黒いパイプが取り込まれており、サイフォンの原理を利用して畑に水を引いているものと思われる。そのパイプの上をサワガニが動き、あっという間に身を隠してしまった。クレソンが数株生えているのも発見した。次回来たときには、これを採って豚しゃぶにでもしよう。
 数千年前?の古民家
打ち捨てられた数千年前?の古民家
エリコの水路
 バナナ畑や椰子の木立を抜けると、水路はレストランの敷地を囲ったフェンスの中へと消えている。ここで万事休すかと思っていると、レストランの敷地から若者がプールに飛び込む歓声が聞こえてきた。レストランのご主人に断りを入れ覗いて見ると、立派とは言い難いけど、清水を引き入れた気持ちの良さそうなプールがあった。若者が「君も泳げよ」と声を掛けてきたが、水着もないので遠慮した。エリコの住民の憩いの場になっているようだった。
 水路は、このレストランの敷地を抜け、さらに続いていた。ちょっと水が増えてきた感じである。水路脇には水路の底にたまった砂利がすくい上げられていた。水路が急な右カーブを描くと、風景が急に開け、水路は深く掘られた枯れワジの斜面を流れていた。対岸にはベドウィンが羊を引き連れ、湧き水を飲ませていた。さらに遠くにはベドウィンの集落も見える。
水路に生えるクレソン
遺跡のような橋  しばらく行くと水路は1本の太いパイプから流れ出し、それは遺跡のような橋を伝って対岸に通じていた。ワジに降りようと迂回。ようやく道を見つけて降りると、ワジの斜面にはところどころに清水が湧き出し、ハチやハエなどが飛び交っていた。砂漠にハチとは思いもよらず、身の危険を感じ、すごすごと撤退した。斜面に戻って水路の行き先を見ると、フェンスに囲われた敷地に通じていた。どうやらここが水源のようである。水源を見るのは次回の楽しみに取っておくことにした。
 帰り道、この清水を使ったミネラルウォーターの工場を見学した。大した設備もないようだったが、ひっきりなしにペットボトルに詰められた水がベルトコンベアーを流れていた。砂漠の町にこのような工場があるとは驚きだ。町の繁華街でそのミネラルウォーターを買ってのどを潤したが、流した汗の分以上においしく感じられた。

●聖地エルサレムの素顔に出会う14
「危険な鬼ごっこ」


2002.9.7
 ベランダから町並みを眺めていたら、突然、遊んでいた子供たちが散り散りになって家々の陰に逃げ込んだ。商店の扉は固く閉じられ、静寂に包まれた町をイスラエル軍の四輪駆動車がスピーカーから何かをがなり立てながら駆け抜ける。イスラエルによる外出禁止令が敷かれたヨルダン川西岸のパレスチナ自治区ラマラ。子供たちは、時には命をも失いかねない危険な「鬼ごっこ」に興じていた。
 パレスチナ人によれば、軍の車両は拡声器からアラビア語で「ラマラの住民へ。外出禁止令が敷かれています。外に出ていると、撃たれて死にますよ」と言っていたそうだ。実際にこの日も外出禁止令を破った男性が軍兵士に足を撃たれて負傷したという。イスラエルは、自爆テロなどを実行する過激派がイスラエルに向けて出撃するのを防ぐため、やむを得ずパレスチナの町に外出禁止令を敷いていると主張。パレスチナ側は、市民に対する集団懲罰であり、経済を悪化させていると激しく反発している。
 ただ、パレスチナ人たちは、生活を維持したり、イスラエルに対する敵対心を誇示したりするため、外出禁止令破りを繰り返している。日によって戦車が展開するなど禁止令の厳しさは異なるそうだが、この日は軍の車両が通り過ぎると、満ち潮のように子供たちが街頭に戻り、時折、タクシーや乗用車が通り過ぎる。軍用車両が近付いてくると、子供たちは歓声を上げながら逃げ出し、タクシーは急にバックしたりして路地に逃げ込むといういたちごっこを繰り返していた。
 報道関係者は、外出禁止令の対象から除外されている。マイカーには窓にテープで「TV」と大きく張り付け、報道関係であることを示しているが、この日はタクシーを借り切ったため、ラマラ市民と同じように、ラマラ市内で決死の取材を敢行する羽目になった。
 タクシーの運転手は市内の大通りを避け、住宅街の狭い迷路のような路地を走った。大通りを走っていたところ、突然、前の車2台が右往左往した様子で急停車。見ると、数百メートル先を2台のイスラエル軍の車両が土煙を上げながら疾走していた。銃弾が飛んでくるという万一の事態に備え、パソコンや書類の入ったかばんを抱えていた。運転手に、どうしてこんな危険な目をしてまで働いているのかと質問したら、「生活のためだ」との答えが返ってきた。車の運転手たちは、手でお互いに合図を送り、軍用車両の位置を頭に描きながら車を走らせているという。
ムサハン
テイクアウトのパレスチナ料理「ムサハン」
パレスチナ少年
外出禁止令下のラマラで、料理を前に微笑むパレスチナ少年
 商店もほとんどは店を閉めているが、中にはわずかに扉を開け、営業している店もある。このため、外出禁止令が続いていても、必要なものは概ね手に入る。流石に公然と営業している飲食店は見当たらないが、テイクアウトによる営業を続けている店があるという。この日の昼食は、ムサハンという鳥の丸焼き半身が乗ったピザのようなパレスチナ料理に舌鼓を打った。パン生地に鳥とみじん切り玉葱、たっぷりのオリーブオイル、紫色の香辛料というシンプルなものだが、一つ一つの素材がお互いを引き立て、こってりとした味わいの中にも香辛料のさわやかな匂いが鼻腔をくすぐる。外出禁止令破りをした後とあって、体力的にも精神的にも消耗していたため、2人前はありそうな巨大なムサハンはすっぽりとお腹に納まった。
●聖地エルサレムの素顔に出会う13
「砂漠に生まれた享楽都市」


2002.8.22
 随分前に日が落ちたにもかかわらず、熱風に全身を包まれた。最高気温は45度。最低気温も30度以下にならない日もある。アカバ湾に面したイスラエル最南端の都市エイラート。ヨルダンの町アカバからサウジアラビアへと続くナトリウムランプのオレンジ色に瞬く夜景がアカバ湾の水面に揺れている。
 エイラートは第2次世界大戦後にイスラエルによって拓かれたリゾート地だ。エルサレムから灼熱の砂漠を約4時間、パレスチナからも遠く、自爆テロなどとは無縁の都市である。夜の町には大音量のロック音楽が響き渡り、水着姿の若い女性が闊歩していた。
 東の国境を越えればヨルダンの町アカバ。南西の国境はエジプトの保養地タバに接する。イスラエル・ヨルダン国境を通り、アカバに入った。アカバは、岩山のなだらかな扇状地に広がり、ヨルダン唯一の外港として海運業などで栄えている。南方約15キロの地点はサウジ国境だ。
エイラートのホテルの風景
エイラートのホテルからサウジアラビア方面を眺める。
エイラートの海と岩山
エイラートの海と岩山
 そこから内陸に向かい、ペトラ遺跡を目指した。赤っぽいごつごつとした山並みが背後に広がる砂漠では、遊牧民のベドウィンが数千年前と変わらない暮らしを営む。著名なベドウィンの一族出身という観光ガイドによると、定住するベドウィンも増えているという。電気を引き、ラクダに代わって自家用車を持つ人もおり、確実に貨幣経済に組み込まれつつあるようだ。ベドウィンの中には、人里離れた国境を自由に行き来できることを逆手に取り、麻薬や武器などの密輸に手を染める者もいるという。
ベドウィンの少女
ヨルダンのペトラ遺跡で小石を売るベドウィンの少女
ペトラ遺跡
ペトラ遺跡
 ペトラ遺跡は、2000年以上も前にアラビア半島からやってきたナバティア人によって創られた都市である。アジアからもたらされた香辛料を運ぶ隊商の宿としても栄えた。
 イスラエルのネゲブ砂漠にあるアベダット遺跡のように打ち捨てられたキャラバン・サライ(隊商宿)は、中東の各地に残っている。エイラートの喧騒も、イスラエルが建国されたわずか50年余りの時間の流れを持つに過ぎない。近くには、数千年の時を刻み続けるベドウィンの悠久の生活が並存する。
●聖地エルサレムの素顔に出会う12
「禁じられたキノコ採り」

2002.8.22
 夕方、イスラエル軍報道官から携帯に電話が掛かってきた。「ガザ地区の警備活動に案内する」という。前日に軍関係者と会った際、「兵士の活動に同行したい」と伝えていた要望が受け入れられたもので、夜9時半に現地で待ち合わせすることになった。
 エルサレムにある支局を出たのは夜の7時半過ぎ。車を飛ばしてぎりぎりの時間である。既に辺りは夜の帳が降り、民家の窓には明かりが灯っている。待ち合わせ場所は、ガザ地区中部にあるイスラエル境界線上のキスフィム軍検問所。初めて行く場所で、闇夜に浮かぶ案内板を頼りにひたすら車を走らせた。幹線道路から外れ、ガザ地区に通じる道に進むが、車は1台も見当たらない。道を間違えて銃撃されはしないかという恐怖感に背筋が凍る。
イスラエル軍兵士
14日深夜、イスラエルとガザ地区にある境界線上のキスフィム軍検問所で、
装甲4輪駆動車に乗り込むイスラエル軍兵士

「こんばんわ。遠かっただろう」。軍検問所で笑顔の若い兵士と握手を交わした。軍司令官ら兵士6人の乗った装甲4輪駆動車の分厚いドアを開け、助手席に乗り込んだ。軍検問所を通過し、ユダヤ人入植地に向かう。
 「半年前にここで女性が撃たれて死んだ」。司令官によると、パレスチナ過激派が道路脇に潜み、入植者の運転する車に銃を乱射してきたという。パレスチナ側には、入植者や兵士は正当な攻撃対象との認識があり、日常的に衝突が起きている。パレスチナの土地を入植地に通じる道路が切り裂き、有刺鉄線が張られたフェンスを隔て、数十メートルのところにはパレスチナ人の民家が点在する。軍用車が行き交う中、銃撃を恐れる入植者の車が猛スピードでわれわれの車両を追い抜いていった。
 軍の監視ポストに案内された。約10メートルの円形の建物内では、兵士が24時間体制で周辺の動向に目を光らせている。兵士が「マウス」と呼ぶ暗視スコープをのぞかせてもらった。闇夜の中、林や民家が黄緑色に浮かび上がった。これを使えば、敵の動きは手に取るようであろう。フェンスには電子感知装置やカメラが装備され、特殊車両の中では兵士が送られてきた画像を監視していた。「最新の機材を使っている。こいつらは頼りになる」と司令官。解放闘争として武力に訴える過激派は、銃やナイフだけで最新装備の軍隊に挑む。パレスチナ側の取材で見える事実とは随分異なるものが見えてくる。
 司令官は、境界線上のフェンス近くの松林を指差し、ここでは大きなキノコが取れると言う。日本では、キノコ採りに夢中になったものだが、中東のイスラエルでは半ば諦めていた。ところが、雨季の12月ごろ、雨が降った翌日以降にキノコが生えてくるという。オラニト(ORANIT)という名前のキノコというが、ネットで調べても出ていなかった。
 立ち入り禁止区域の松林で取れるキノコは大きく、司令官は両手を大きく広げた。ベドウィンなどの遊牧民が主にキノコ取りをするそうだが、彼らも立ち入りできない。普通は10センチほどのキノコだが、30センチを越えるものもあるという。司令官に「俺も日本ではキノコ採りが趣味なんだ。冬になったら電話をくれ。一緒に取りに行こう」と向けると、「残念だが民間人は立ち入り禁止だ」と笑った。
 ガザ地区のユダヤ人入植地の監視ポストの兵士が、イスラム原理主義組織ハマスの狙撃手に頭を撃たれて死亡したというニュースを聞いたのは、それから1週間後のことだった。
●聖地エルサレムの素顔に出会う11
「イスラエル的合理主義」


2002.8.7
 マイカーの車検に行ってきた。日本での煩雑かつ高額な車検制度を思い浮かべていただけに、かなりの衝撃を受けた。時間にしてわずか30分。60シェケル(1500円)なり。イスラエル的合理主義に頭をガツンと叩かれた感じである。
 ついこの間まで日本の車検は、車を数日間業者に預けて税金を入れた出費が10数万円というのが相場であった。政官財癒着の結果もたらされた業界のための消費者を無視した制度という見方がもっぱらだ。
 イスラエルの車検は、ベルトコンベアーの製造ラインのようである。列に並び、車に乗りながら最初にエンジンルームのオイルなどのチェックを受ける。その後、整備員の指示に従って、方向指示器やブレーキランプなどを検査。マフラーに棒を突っ込んで排ガスの数値を計測。前に進み、ローラーに車輪を載せて、ブレーキを踏んだり、サイドブレーキを引いたりして制動能力を確認。さらに前進して別の係員のところでハンドルを左に右に切ってアライメントなどのバランスをチェック。車に詳しい友人によれば、日本の検査内容とほとんど違いはないという。
 検査が終わると、自分でチェック用紙を事務所に持っていき、係員がコンピューターに登録。検査終了のシールをもらって終わりだ。修理の必要がある場合にはその場で修理したり、行き付けの整備工場で修理した後に再度チェックを受ける。
 車検場では、買い物帰りとみられるおばさんやデート中とおぼしきカップルなどが検査を受けていた。
ヨルダン川西岸の夕日
エルサレム近郊にあるアブゴッシュ村のレストラン。
本格的に炭火でコーヒーを沸かしている。


メイド・イン・イスラエルの刻印がある瓶一体型ミキサー
 イスラエルは日本に比べ、気楽で合理的とも思えるものが少なくない。ネクタイやスーツで正装する機会は滅多にないし、街中にもTシャツにサンダルという軽装が目立つ。ただ、この合理主義、悪く言えば行儀の悪さは、民族が経験してきた歴史を反映したものと言える。米紙ニューヨーク・タイムズの著名な記者トーマス・フリードマンは、その著書「ベイルートからエルサレムへ」で、ユダヤ人が経験したホロコーストなどを引き合いに出しながら、「もし本当に明日を信じていないなら、礼儀作法など気にしてもしようがないのである」とつづっている。フリードマンが指摘するように、イスラエルで運転していると、信号が青に変わったとき、10億分の1秒以内に動き出さないと、後ろの車がけたたましくクラクションを鳴らしてくる。大虐殺をかいくぐり、やっとの思いで国を打ち立てたものの、油断すれば、すぐにアラブ諸国によって地中海に突き落とされてしまうという不安感の中で生きているイスラエル人にとって、体裁や行儀作法などに注意を払う余裕はないのである。
 最近、身近なところでイスラエル的合理主義を体現した台所グッズを発見した。写真下は蓋付きの瓶にミキサーを合体させてしまったもので、骨董店店主は「台所は清潔が一番」と一言。生クリームなどを入れて蓋を閉めて攪拌する際、液体が飛び散らない。さらに、瓶にラップなどをして、そのまま冷蔵庫にしまうことも可能! 4,50年前の商品というからイスラエル建国(1948年)の直後に製造されたものである。瓶が割れてしまったものが多く、なかなか完成品がないとか。
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