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まちを歩けば棒にあたる
聖地エルサレムの素顔に出会う-page07
●聖地エルサレムの素顔に出会う35
「多様な人々」

2004.7.4
 取材から支局に戻ると、パレスチナ人の若い助手が神妙な面持ちでつぶやいた。
 「彼らは貧しくてかわいそうだわ。将来の希望もないし」・・・。
 「わたしたちは自由に移動できるし、海外旅行にも行ける。彼らが住んでいるのはまるで監獄だわ」。
 エルサレム近郊にあるヨルダン川西岸のパレスチナの村ビッドゥの分離壁建設現場を歩いた。パレスチナ人の自宅前では、うねうねと続く幅30メートル前後の整地された建設予定地から土ぼこりが舞っていた。自宅近くのオリーブの木々を引き抜かれ、土地も接収された。学校の先生だという住人の1人は、自宅を取り壊されないよう職場を休んで自宅を守り続けてきた。この数カ月で体重は10キロ以上も減ったといい、深い疲労の色を顔に漂わせていた。
 取材中もイスラエル国境警備隊の4輪駆動車が行き交い、警備関係者が威嚇するかのように、庭に座るわれわれにカメラを向けた。
 エルサレムから車で20分程度だというのに、そこにはエルサレムに行くことが許されないパレスチナ人が住んでいる。1967年の第3次中東戦争でヨルダンがイスラエルに敗北した歴史的経緯などから、東エルサレムに住む助手のようなパレスチナ人には、イスラエル人とほぼ同等の市民権を与えられている。同じパレスチナ人であっても、ヨルダン川西岸に住むパレスチナ人たちとは経済状況も考え方も大きく異なり、アラビア語も方言のように違う。
 最近、イスラエル当局から助手に記者証が与えられたため、なるべく外に連れ出すようにしている。記者証を受けたのは申請してから1年以上が経っていた。当局は、治安を理由に身元審査に時間がかかると主張したが、パレスチナ人にとって都合の良い情報を流されたくないという思惑があるのだろう。記者証がなければ、自由に町と町を行き来することはできない。20分の距離だが、実際には飛行機で何時間も移動するのに等しいような違いを感じる。
 村人からお土産にもらったパンをつまみながら、「このパン、なかなか美味しいわ。これを買いに行ってあげれば、彼らも助かるかも」と話す。エルサレムに行けないという老女に、何か欲しいものはないかと彼女は聞いたらしい。
 「今度行くときは、カーカ(ナツメヤシが入ったクッキー)を持っていくの」。
荒涼とした風景
 字面でパレスチナ問題を理解していたつもりになっていた現実に、彼女は気づいたようだった。同じパレスチナ人でありながら、あまりの境遇の違いに衝撃を受けたのだろう。最近訪れたナブルスのバラタ難民キャンプの貧しさに対する驚きが冷めない中、彼女なりに真剣にパレスチナ問題を考え始めているようだった。多くの若者がそうであるように、長期化する紛争に対する関心よりも、自らの生活に注意が向く。パレスチナ人として、記者として、彼女は紛争が続くこの地で、どのような人生を歩んでいくのだろうか。
 こんなことがあった週の終わり、久しぶりにエリコ近くに住むベドウィンのムハンマドに会いに行った。車で30分ほどのところに、何千年もほぼ変わらない生活を続けるベドウィンが住む。パレスチナ人とはまた違った自意識を持っている。ただ、タクシーで気軽に町に行けるし、ベドウィンの1人は「携帯は便利だ」と微笑む。灼熱の砂漠のど真ん中で、携帯の呼び出し音が鳴り響く。
 ムハンマドがテントを構える村オウジャへの途次、パレスチナ人がヒッチハイクをしているのに出会った。オウジャの方に行くという。ついでだから乗っけていく。しかし、これがまた脱線の始まりだった。
 久しぶりのヨルダン渓谷だ。雨は3カ月以上も降っておらず、ヨルダン川西岸から渓谷に落ち込む山道の周りには、茶褐色の荒涼とした風景が広がっている。その中に、ベドウィンのテントがぽつりぽつりと浮かぶ。標高が下がるにつれ、気温はぐんぐん上昇していく。
 おじさんは、サーミルという名前だという。随分汚い格好だ。申し訳ないが羊のような動物臭も漂う。運転には自信がある筆者に、「下り坂だからもっと速度を落とせ」と、厚かましく指示してくる。
ベドウィン  「あそこに住むベドウィンのところで茶でも飲んでいかないか」と、サーミルが山の頂に佇むテントを指差した。
 ごとごとと砂利道を進む。ベドウィンは車も持っている。何台か車が止まり、給水タンク車もある。天幕を張った大地にゴザが敷かれ、大人たちが寝そべっていた。鶏やヤギ、羊、ラクダに混じって子供たちが強烈な太陽にも負けずに、真っ黒に日焼けして遊び回っている。若者の1人にテント村を案内してもらう。
 テントの1つでは、若者の妹だという若い女性が額から汗を滴らせながら、シャークと呼ばれる薄っぺらいパンを焼いていた。焼きたてのパンにオリーブオイルを付けていただく。うまい。
 敷地内には洞窟があり、これに柵をしてヤギを飼育していた。ヤギや羊は、1匹150ドル程度で売れるというから、相当の資産家と言える。数にもよるが、1000万円以上の資産になることもあるだろう。
 動物の糞で小さな山が出来ていた。これは燃料にするのだという。タブーンと呼ばれるパンを焼く窯を初めて見た。かつてパレスチナに多くあったが、今では数少なくなった。窯の中に砂利が敷かれ、ふたを閉めて糞の燃料で埋めるようにできている。
 テントに戻る。アラビックコーヒーやチャイが何杯もでてくる。涼しかった風もだんだんと熱風になってきた。絶景である。眼下にはヨルダン渓谷が広がり、その向こうには、ヨルダン川東岸が聳え立つ。そのさらに向こうは、イラクだ。今は人間が物理的に引いた国境が控えるが、ベドウィンたちは昔、この地域を行き来したのだろう。テントに寝そべっていたら、暑さで思考能力がなくなった。まぶたが重い。
 テントに、マンサフと呼ばれるヨーグルトを使った羊料理が運ばれてきた。巨大なお盆に山盛りである。先ほど焼かれたシャークというパンが下に引かれ、その上にターメリックで着色されたごはん、羊の大きな煮込みが載っている。その上から羊を煮込んだお湯で溶いたヨーグルトをたっぷりとかける。じっくりと煮込まれた肉はやわらかく、油っぽくはない。下の方は、ヨーグルトが米に滲み込んでいる。ぐちゃぐちゃした食感は嫌いなので、上の方をいただく。レストランで食べるような上品さは全くない本格派のベドウィン料理である。
 ものの本によれば、ベドウィンがゲストに食べ物を供するのは、お腹を一杯にさせようということではなく、客に敬意を表するためであるという。このため、食べ過ぎるのは礼儀を失する。ホストが食べ終わる前に、食べ終えるのがマナーとされる。ベドウィンの格言に「腹一杯で人を訪ねるのが良い」というのがある。
シャーーク
マンサフ  確かに食事は早かった。あっという間に終わり、いつの間にか1人で食べていた。周りの人に1人で食べていてもいいのかと問うと、「ゆっくり食べればいい。中には昼食を食べてきた人もいるから」と、マナーを知らない外国人への気遣いを見せてくれた。
 テントに鎮座する男性陣の食事が終わると、なお山盛りの料理は別のテントに住む女性や子供たちのところに運ばれていった。男性と女性、子供たちは食事を別々に取るという伝統がなお残っていた。最も若いベドウィンがてきぱきと料理を上げ下げし、紅茶や飲み物を注いで回る。長老が威厳を持つ序列が家族の中で保たれているようだ。
 サーミルも実はベドウィンだという。ただ、羊を飼っているものの、居を構えて定住している。しかし、本人はベドウィンだと胸を張る。ヨルダン渓谷にある家に送る。帰り道、ヨルダン川西岸の大地に真っ赤な太陽が沈んでいく。砂漠の使われなくなった道路に寝転んだ。熱風が大地から上昇気流となって立ち上り、耳を通り過ぎる風の音だけが響く。ヨルダン川西岸が暗闇に包まれたかと思うと、反対の東岸から真っ赤な月が顔を出した。
●聖地エルサレムの素顔に出会う34
「小さなビール醸造所」


2004.6.26
 地中海を望むガザの食堂でつまむイワシの空揚げを楽しみに取材に出かけることもあるが、冷たいビールがあったらいいといつも思う。厳格なイスラム教徒が多いガザにビールが飲める店はない。国連関係者やパレスチナ自治政府高官などはこっそり持ち込んで身内のパーティで喉を潤しているらしい。2000年9月にインティファーダ(対イスラエル民衆蜂起)がぼっ発する前は、ガザでもビールを飲める店があったという。しかし、紛争が吹き荒れるとともに、イスラム原理主義組織ハマスなどの過激派勢力が伸張し、ビールを供していたレストランが焼き討ちに遭うという事件も起きた。かくして、ガザの港に早朝水揚げされたイワシの空揚げをつまみに、きりりと冷えたビールをくびっとやるのは、和平達成まで待たなければいけないようだ。
 そんなパレスチナにも地ビールがある。中東で唯一の家族経営の小さな醸造所だ。気になる存在ではあった。支局の助手にタイベ・ビールの醸造所を見に行こうと声を掛けると、経営者は大学の恩師だったというではないか。話は早い。
 醸造所は、ヨルダン川西岸のパレスチナ自治区ラマラの東郊に位置するキリスト教の村タイベにある。村は聖書時代にまでさかのぼる歴史を持ち、聖書名は「エフライム」という。1187年ごろにこの村を訪れたイスラム指導者のサラディンが村民からもてなしを受け、「善良で親切な人々」を意味する「タイベ」という名を村に与えたとされる。1948年のイスラエル建国や67年の第3次中東戦争で村民約7000人は海外に移り住み、今は1500人余が暮らす静かな村だ。ヨルダン川西岸の大地がヨルダン渓谷に落ち込むごつごつした石灰岩の山頂や斜面にへばりつくように家や教会が建つ。エルサレムからは車で30分ほどの距離にある。訪れたときには、蒸された麦芽の甘くてこうばしい香りが醸造所周辺のオリーブ林に漂っていた。パレスチナでは悲惨な取材が多いが、この村はイスラエル軍による侵攻もなく、ゆったりとした時間が流れていた。
大麦を譲り受ける農家
ビール醸造所から廃棄された大麦を譲り受ける農家
タイベ醸造所
タイベ醸造所
 パレスチナでキリスト教徒は人口の約3%にすぎない。大部分を宗教上アルコールを禁じられたイスラム教徒が占め、ビールを売り込むのには厳しい環境だ。さらに紛争がイスラエルやパレスチナから観光客を遠ざけ、売り上げは大きく落ち込んでいる。傍目から見ると、醸造所は存続が危ぶまれる状況だが、オーナーの1人ダビドゥク・ホーリー氏は「和平が訪れるのを信じている」と今も細々と生産を続け、エルサレムなどに住む愛好家のために丹精込めてビールを造る。
 パレスチナでは1993年のオスロ合意(パレスチナ暫定自治合意)後、海外に逃れていたパレスチナ人が大挙して帰還した。約1万5000人が和平への期待を胸に、海外で得た資金を投じてパレスチナにホテルや飲食店などを次々と開業した。米国のボストンに住んでいたホーリー氏一族も、酒販売チェーンや不動産業で得た資金を元手に、故郷パレスチナのタイベに自らの醸造所を持つ夢を叶えた。当初は、年間100万人にも上った観光客やイスラエル人を相手に経営は順調だったが、紛争が状況を一変させた。
 現在醸造所は事実上赤字で、米国の家族がビジネスで得た資金で経営を支えているという。政治的な理由からパレスチナのビールを飲むイスラエル人はいなくなった。ポルトガルから輸入するビール瓶は、治安上の理由から長期にわたってイスラエルの港に留め置かれることもあり、生産コストに大きく跳ね返る。24本入りの1箱がイスラエルの量産ビール「マカビー」では88NISだが、少量生産のタイベ・ビールは120NISもする。比較的物価の安いパレスチナにあって、決して安くないビールなのだ。
 しかし、このビールは決してなくならないと思う。ダビドゥク氏の弟で醸造責任者のナディム氏は米国在住中、ビール好きが高じて醸造セットを購入して自宅でビールを趣味で造っていた。ビールの博覧会があると聞けば、米国各地や世界に足を運んだという。祖国のパレスチナに1つぐらいうまいビールがあってもいいという一族の熱い想いが厳しい醸造所の経営を支えている。
 タイベ・ビールは1516年のドイツの「ビール純粋令」に基づき、大麦、ホップ、酵母、水の4つの原料だけを使った製法を守っている。水は近くの泉からパイプで引き入れている。ダビドゥク氏は「いずれの民主的な国にもうまいビールがある。ここには何か欠けていた。ビールがないのだという想いで醸造所を始めた。占領が終われば、巨大な経済が目覚めるだろう。その時を待っている」と経営者の顔をのぞかせた。
 現在、ビールはエルサレムなどのホテルや飲食店にわずかに出荷され、生産能力の8割以上が休眠している。従業員は最盛期の12人から5人に減った。タイベとは、アラビア語で「おいしい」という意味もある。人々がタイベ・ビールを飲み、上面発酵イーストを使ったエールのほろ苦い味わいに気持ち良く酔える日がいつ来るのだろうか。
●聖地エルサレムの素顔に出会う33
「玉葱と国際政治」


2004.6.26
 老若男女の村人や平和団体などの千人を超すデモ隊がシュプレヒコールを上げながら現場に進んでいく。デモ隊が現場に近づくと、イスラエル軍部隊は催涙弾や大きな音を出す音響爆弾、ゴム皮膜弾を発射した。強固な団結を誇ったかに見えたデモ隊は散り散りになり、最前列付近のごく一部だけが現場に到達し、兵士らともみ合っている。
 イスラエルが自爆テロ実行犯などの侵入阻止を目的にヨルダン川西岸に構築している分離壁。西岸中西部にある村アッザウィアでは連日のようにデモが繰り広げられている。村の東側にフェンスが建設され、村の農地約90%が切り離される。危機感を抱いた村民が立ち上がった。
 「バン、ヒュルヒュルヒュルー」。催涙弾が白煙を引きながら円を描いて落ちてくる。全速力で走って何とか逃げられるように見えるが、連続して発射されるとお手上げだ。強烈な刺激臭を伴った白いガスが辺りに漂う。目から涙が止まらず、吐き気も催す。大量にガスを吸うと、呼吸困難に陥る。ガスを吸ったためにぐったりとなった若者や女性が救急車で運び出されていく。音響爆弾の大きな爆発音や発砲音が響く中、ガスのために頭が朦朧として無力感に襲われる。戦場の悪夢とはこのようなものかと感じさせた。
タマネギで中和
タマネギで催涙ガスの中和を試みるパレスチナ人
デモを見守る人たち
デモの行方を見守るパレスチナ人
 取材に訪れた筆者に対し、村民は「写真、写真」と言って最前線に押しやろうとする。真実を世界に伝えて欲しいという気持ちから出た自然な行為なのだろう。住民は催涙ガスに対抗して、玉葱を潰してその液を鼻から吸い込んでいる。果たして効果があるのか、試みたが、ガスから逃げた方が早いというのが率直な感想だ。ただ、そこに住む住民はそういうことは許されない。先祖から受け継いだ土地やオリーブの木を守ろうと、ブルドーザーに突入していく勇敢な老婆の姿もあった。玉葱以外にも酢や香水を手にした女性の姿もいる。
 しかし、国際政治の論理は過酷だ。このようなデモで既にパレスチナ人の死者も出ているが、強硬派のシャロン首相が進める分離壁計画が変更になるとも思えない。自爆テロを行うパレスチナ過激派が壁をもたらしたという面もある。書いても書いても悪化の一途をたどるパレスチナ情勢。筆の力でパレスチナ問題を少しでも良い方向に持っていければと願う気持ちが揺らぐ中、玉葱を手に国際政治の論理に立ち向かう人々の存在は、自らの怠慢を目の前に突きつけられた気がした。
ご馳走になった食事
アッザウィア村でご馳走になった食事
●聖地エルサレムの素顔に出会う32
「戦地のクナーフェ」


2004.6.20

 イスラエル国内でパレスチナ過激派による自爆テロが鳴りをひそめている。流血の紛争がトンネルの出口に近づきつつあることを示すものでないことは確かだ。イスラエル側から伝えられる情報では、事前に計画が阻止されたり、途中で自爆犯が捕らえられたりしており、武装勢力側の戦闘意欲は衰えていない。さらに、イスラエルがヨルダン川西岸に建設している分離壁も、過激派の作戦遂行を一層困難にしているもようだ。イスラム原理主義組織ハマスなどの過激派は、精神的指導者ヤシン師や指導者ランティシ氏が相次いでイスラエル軍に暗殺されたのを受け、大規模報復を宣言した。エルサレムをはじめとしたイスラエルを不気味な静けさが覆っている。
山越えルート
ナブルスへの山越えルート
 数多くの自爆犯の出撃拠点となっているヨルダン川西岸のパレスチナ自治区ナブルス。この都市は、小麦粉とチーズを主な材料とする甘いアラブ菓子クナーフェで名を馳せる。しかし、紛争の長期化でナブルスから伝えられるのは、悲しいニュースばかりだ。イスラエル側が「テロ拠点」と名指しするナブルスに向かった。
 エルサレム北郊にあるイスラエル軍のカランディア検問所から、乗り合いタクシーのシェルートに乗る。ナブルスまでは約1時間の旅だ。しかし、今回はイスラエル軍の活動を探るため、移動許可証を与えられないパレスチナ人や自爆犯らが使うとみられる山越えのルートを選んだ。ヨルダン川西岸には軍の検問所が幾つも設けられている。しかし、数カ月前にエルサレムで出会ったパレスチナ人の少年は、1カ所の検問所も通らずに山を越え、エルサレムにやってきたと話した。このようなルートが今も健在なのか興味があった。
 カランディアから「入植者道路」と呼ばれるイスラエルがユダヤ人入植者のために整備した道に入る。両側には、統一された建物が並ぶ入植地が目立つ。占領地で今も着々と建設が進められており、ヨルダン川西岸に20万人以上のイスラエル人が住んでいる。安全保障の観点から戦略的な要衝である高地に建設されることが多い。周辺のパレスチナの村を見下ろしている。ヨルダン川西岸の水はイスラエルが事実上管理しており、プールを備えた入植地もあるが、パレスチナの村は慢性的な水不足に悩まされ、屋根の上には黒いタンクが幾つも乗っている。
 しかし、ヨルダン川西岸は魅力的な土地である。白っぽい岩肌が点々と見えるなだらかな山や丘陵が続き、オリーブや果樹の緑が映える。道は、谷間をゆったりとうねりながら進んでいく。羊の群れを追う牧夫の姿もある。パレスチナ人の村がまばらに点在し、農業を基本的な生業とするのだろう。どの家にも果樹などが植えられ、鶏が走り回る。
 ただ、軍用車両や兵士の姿も目立つ。防弾装甲を施した入植者用のバスや黄色のイスラエルのナンバープレートの車も少なくない。検問所では炎天下、長時間にわたって待つパレスチナ人を尻目にイスラエル人の車両がノーチェックで通り過ぎていく。本来の住人であるパレスチナ人たちが肩身を狭くし、占領者が我が物顔で暮らしているという印象だ。
クナーフェ屋さん
ナブルス旧市街のクナーフェ屋さん
 ナブルスはイスラエル軍に事実上包囲されている。町に通じる道路には検問所が設けられ、出入りが厳しく規制されている。対イスラエル攻撃に関与する可能性が高い若者の移動は原則禁止され、主に商人や学校の教師、国連関係者などだけに移動が許されている。警備の厳しいナブルス南郊のフワラ検問所を回避し、道を左に折れる。
 小さな村から山に延びる道でシェルートから降りた。道は、ブルドーザーが積み上げた土砂で閉鎖されている。細かい石灰のような砂が靴の中に容赦なく入り込んでくる。日差しを遮るものもなく、強烈な太陽が肌を焼く。汗が噴き出すものの、素晴らしい景色に疲れも吹き飛ぶ。眼下遥かには、地中海が微かに見えるような気がする。周辺に小さな村が身を寄せ合うように点在し、岩山の頂点には、要塞のような村もある。和平が訪れれば、観光名所の1つになることは間違いないであろう。
牛の首
ナブルスのバラタ難民キャンプの肉屋さんには牛の首が
 パソコンの入った鞄の紐が肩に食い込む。道の両側には時折、オリーブやアーモンドの林がある。村の重要な食料供給源だ。しかし、どこから水を持ってくるのか不思議に思う。しばらく歩いていると、どこからともなく、イスラエル軍の四輪駆動車が現われた。恐らく山の上に立つイスラエル軍監視塔の兵士に発見され、身元を確認しに来たのだろう。イスラエル軍兵士は「こんなところで何をしているのか」と問う。同行した助手は、近くの知人に会いに行くと答え、ナブルスに向かうという真の目的を隠し通した。いずれにせよ、彼らにとってわれわれは真のターゲットではないため、尋問にもさほど緊張感はない。約1時間の道程で、計3両の軍車両に遭遇し、それぞれ尋問を受けた。山越えのルートにもイスラエル軍は警戒網を広げており、パレスチナ人が検問所を避けて移動するのはますます困難になっていると思われた。
 ようやく目的のテル村に到着した。ここから乗り合いタクシーに乗れば、ナブルスまではすぐだ。ナブルスは、北のアイダル山と南のジャルジィーム山に挟まれた谷底に中心街が広がり、山を駆け上がるように住宅が建っている。ヨルダン川西岸北部の中心都市の1つで、店には多くの商品が並び、買い物客で街は賑わいを見せていた。傍目には、イスラエル軍が毎日のように侵攻する街のようには見えなかった。
 しかし、街は突然、牙を剥いた。車両の出入りを拒む狭い路地が入り組む薄暗いナブルスのカスバ(旧市街)を散策している時だった。短銃を持ったパレスチナの若者の一団に人気のない狭い路地に連れ込まれた。われわれ5人組の中にビデオカメラを袋に入れて持ち歩いている者がいた。それは短銃と疑われても不思議でない形状をしていた。彼らは、われわれが旧市街で何をしているのかと問い詰めた。「地図を作成していないか」「写真を撮ったのではないか」−。緊張が走った。
 どうやらイスラエル軍のエージェントに疑われたらしい。イスラエルは、記者やパレスチナ人などに偽装した部隊を送り込み、パレスチナの活動家を暗殺したり、連行したりすることがある。ナブルス旧市街は、戦車などの車両が入り込めず、イスラエル軍側は犠牲を恐れて、侵攻するのは稀だ。このため、テロに関わったなどとして指名手配されている武装組織活動家の多くが身を寄せており、大量の武器や弾薬が民家に隠されているとみられている。
 「われわれは記者などで旧市街を散策しているだけだ」と説明すると、若者たちは納得したようで、われわれを解放した。しかし、その直後、暗闇からM16自動小銃を持った若者が飛び出してきた時には、心臓が縮まる思いがした。誤解が予期せぬ方向に発展することもあるためだ。若者たちは「今度来るときは、地元の者を案内役として連れて来い」と警告した。若者の中には、終始厳しい表情を崩さないものもおり、イスラエル軍の作戦に対して常に緊張状態を保っていることを物語っていた。かつてガザ市内で匿名を条件にイスラム原理主義組織ハマスの軍事部門「カッサム部隊」の幹部に接触したことがあるが、武装組織活動家の表情には実戦をかいくぐったものだけが持つ共通したものがある。
クナーフェ職人
クナーフェ職人
 一歩、路地を出ると、買い物客でごった返す道に出た。パレスチナの闇を垣間見た気がした。地元の人なら近づかない場所に、われわれは軽率にも足を踏み入れてしまったようである。気を取り直して近くのクナーフェ屋さんに入った。ひっきりなしにお客が出入りし、大量にクナーフェを買って帰る人もいる。子供たちも立ったまま店先でクナーフェをほおばっていた。ナブルスはやはりクナーフェの本場なのである。
クナーフェ職人
クナーフェ職人
 その夜は、ナブルス中心部のホテルに投宿した。午後8時ともなると、夜の帳が降りた谷底の街は死んだように静まり返り、近所の家から家族の会話が耳に届いてくるほどだった。日が変わり午前2時を過ぎた頃だった。突然、付近で銃声が響き出した。小規模なイスラエル軍部隊が旧市街付近に侵攻したらしく、時折、激しい銃撃戦に発展した。銃撃音はホテルから近い場合には50メートル付近から聞こえてくる。流れ弾が部屋に飛び込んでくるのではないかと気が気でない。窓からなるべく離れるように壁側のベッドに張り付くようにして身を横たえた。さらに、大きな爆発音も2回にわたって静寂を切り裂いた。戦車の砲撃というよりは、過激派側が軍車両を狙って仕掛けた爆発物の炸裂音に思われた。午前4時ごろまで散発的な銃撃音が続き、ようやく眠りに落ちたのは午前4時半ごろだった。朝は8時に目が覚めた。
 「昨晩は随分激しくやっていたね」
 ホテルのマネージャーにこう話すと、彼は眠い目をこすりながら、「ぐっすり寝ていて気づかなかったよ」と、表情1つ変えようとしない。2日前にはもっと激しい戦闘が起きたという。翌日にはナブルスのバラタ難民キャンプ付近を走っていた車にイスラエル軍の武装ヘリコプターがミサイルを撃ち込み、パレスチナ解放機構(PLO)主流派組織ファタハの軍事部門 「アルアクサ殉教者部隊」の地元指導者ら3人を殺害した。
 朝、街を散策する。未明の出来事が幻だったかのように、街は普段と変わらぬ表情を見せていた。このような状況が何年も続いているのである。流れ弾で命を落とした子供や女性たちも多くいる。活動家や投石中に撃たれた子供の数は、数百人の単位に上る。イスラエル軍は徹底した過激派掃討作戦を続けており、バラタ難民キャンプで取材して感じたのは、明らかにパレスチナ側の戦闘力が落ちているということだ。活動家の多くがイスラエル軍部隊に殺害され、拘束された。「殉教者」となった若者が銃を持って写真に写ったポスターが街の至るところに掲げられている。キャンプの若者の1人は「われわれには自らを守るという強い信念がある」「家族を殺され、家を破壊された憎しみは一生忘れることがない」と、固い表情を崩さずに語った。キャンプの子供たちは、ゲームセンターで戦闘ゲームに興じていた。家族や兄弟を殺された子供たちは、戦士に憧れる。成長すれば、武装組織に加わり、イスラエル軍の戦車に立ち向かう者もいるだろう。イスラエル軍の武力による封じ込めは一定の成果をもたらしているが、「憎悪の連鎖」は脈々と受け継がれていくのだ。
 エルサレムの菓子屋さんで聞きつけたナブルスでも有名なクナーフェ屋さんの1つに入った。中心部から外れた閑静な住宅街に位置する「アラファト」。午前10時ごろだったため、まだクナーフェを焼いているところだという。店先でジュースを飲みながら待っていた。何人かが待ちきれずに店を訪れ、われわれのようにクナーフェを待っていた。
 「砂糖は少な目か、多めがいいか」
 「一番少ないのでお願い」
 「表面はラフか、スムースか」
 「ラフがいい」
 これは、カリカリに焼くのがいいのかという趣旨だったようだ。エルサレムでここまで細かく注文を取る店はなく、やはりクナーフェの本場ナブルスであると感じさせた。
アラファトのクナーフェ
ナブルスの名店「アラファト」のクナーフェ
 出来立ての熱々がやってきた。砂糖少なめと注文した割には、どっぷりと砂糖液に漬かっている。しかし、チーズやバターのコクと砂糖の甘みがうまくマッチしている。表面にはピスタチオが降り掛けられ、かりっと焼かれた生地と絶妙なハーモニーを醸し出す。朝から少々胃にもたれたが、250グラムのクナーフェをぺろりと平らげた。
●聖地エルサレムの素顔に出会う31
「激戦下で食べる甘いパン」


2004.6.20
 「タタタタタタタタタ・・・」。激しい銃撃戦が展開されている。ラジオはパレスチナ人の死者が15人に上っていると伝えていた。エジプトと国境を接するパレスチナ・ガザ地区南部のラファ。この地域には、武器や生活物資を密輸する地下トンネルが掘られ、エジプトに通じている。ガザ地区の大部分は砂地であり、スコップなどを使ってパレスチナ人はトンネルを掘っているという。イスラエル軍部隊がトンネル壊滅を狙った大規模作戦に着手していた。
 イスラエル軍は、ガザ最南端のラファと隣町ハンユニスを分断し、武装勢力の補給路を断った。そのため、イスラエルとの境界にあるガザ北部のエレズ検問所を通り、ラファに入るのは困難に思われた。こういう時は時々刻々情勢が変化する。まずは現場に行って情報を入手し、行けるか行けないかトライするしかない。パレスチナ人の助手とタクシーに乗ってラファに向かった。ハンユニスに近づくと、いつもなら通行量の多い幹線道路も閑散としている。しばらく行くと、わき道に救急車が停車して人だかりができていた。
温室の破壊
温室などを破壊するイスラエル軍のブルドーザー
 「この先に戦車が陣取っている」「車で進めば、撃たれるだろう」−。
 パレスチナ人たちが緊張した面持ちで口々に語った。ただ、農地の中を通ってラファに向かうルートがあるという。1人のパレスチナ人が案内してくれることになった。
 砂地のわき道に入り、がたごとと揺られていく。上空ではイスラエル軍の無人偵察機が旋回し、不気味なモーター音が響いている。カラシニコフ銃を手にした殺気立ったパレスチナ人が道を歩いている。男は、覆面も何もしていない。無人偵察機に探知され、ミサイルでも撃ち込まれないものかと心配になる。こういう男は、イスラエル側に言わせると、テロリストになるのだろう。新聞記事の表現では気を使っているが、なかなか苦労させられる。イスラエルとパレスチナの紛争は、インティファーダ(対イスラエル民衆蜂起)とも言われる。字にあるように、民衆がイスラエルという占領軍に抵抗する戦いなのだ。実質的には武装組織とイスラエル軍の戦いになっているとは言え、市民や警官が武器を取って戦っているケースも少なくない。このため、パレスチナ側の論理に立てば、銃を手にした男はテロリストではない。イスラエルは、自爆テロなどを立案したり、準備したりしてイスラエル人殺害に手を染めているとして、テロリスト呼ばわりする。確かにそうかもしれない。 しかし、パレスチナ人の視点から見れば、占領に抵抗するのは、老若男女関係ない。武器を持つものも、持たないものも気持ちを共有しているケースもある。エルサレムの支局でラジオをモニターするイスラエル人の助手に電話をして死者のうち何人が武装勢力なのか確認すると、「多分皆テロリストだろう」という答えが返ってきた。イスラエル人はパレスチナ人を全てテロリスト扱いし、パレスチナ人は国民皆兵のイスラエルの人々を全て軍人のように見なす。双方の人々が右傾化しているのだ。
 タクシーは、道の行き止まりに到着した。ここから歩いて行き、またタクシーをつかまえるのだという。
 「ちょっと先に戦車がいるかもしれないから注意しろ」。
 しかし、人々は平然と歩いている。30度を越す強い日差しの中をパソコンなどの機材を背負って歩く。数百メートル歩くと、また何台かのタクシーが待っている。人々は、1つの道がふさがれれば、また別の道を見つけ出す。逞しいと思うが、生活を維持するためにはそれしか方法がないのである。
家屋の破壊
家屋が破壊されたガザ地区南部のラファ
 ラファの町は、やはり緊張感が漂っていた。車はほとんど走っていない。上空を地上攻撃ヘリコプター「アパッチ」が飛んでいる。現場のテルアッスルタン地区に近づく。人々の顔は、恐怖と怒りに満ちている。戦闘現場から500メートルぐらいのところにある建物の屋上に上がらせてもらい、現場を見る。イスラエル軍の戦車やブルドーザーが温室を破壊しているのが見える。激しい銃撃音があちこちで響き、流れ弾が飛んでこないものかと体がすくむ。住人は「温室が壊され、生活を維持していけない」と訴えた。イスラエル軍が家を破壊しにくれば、銃を手に取って戦うという。イスラエルの言うテロリストは、紛れもない市民であった。 この家の電気や水道は途絶えている。帰ろうとすると、女性が焼きたてのパンを持って階段を上がってきた。この地の人々は、難民として砂漠地帯のベールシェバ(現イスラエル)などから逃れてきた人が多く、もともとは遊牧民であるベドウィンの血を引いている人が少なくない。彼らが焼くファルシューハと呼ばれるパンは、フライパンをひっくり返したようなドーム型の鉄板に小麦粉を貼り付けて焼くクレープのようなものである。湯気を立てているパンをいただく。小麦の甘みが口に広がる。外では相変わらず激しい銃撃音が響いている。
 ラファは、パレスチナの中でも、最も過酷な状況に置かれている。エジプト境界沿いの家屋は、安全保障地帯としての回廊を確保するためや、トンネル破壊作戦を口実に、軒並み破壊され、瓦礫の山となっている。この3年で1万人以上の人々が住家を追われたという。
ファラフェル屋さん
ベツレヘムのファラフェル屋さん
 ラファ中心部の食堂に戻り、パソコンで記事を打ち、携帯電話でインターネットにつないでいると、パレスチナ人の少年が近づいてきた。金をくれという。これならいつもある光景だが、突然、赤外線通信が切断される音がした。パソコンの画面の裏に置いていた携帯が消えている。少年を問い詰めると、ポケットから出てきた。パレスチナでこういう目に遭うことは滅多にない。戦禍の中でも、少年少女の目が放つ輝きにいつもほっとさせられるのだが、ラファの少年の目からは輝きが失われていた。過酷な状況が人々を追い詰めている。
 ラファの窮状を物語るものとして、イスラエルとパレスチナのファストフードであるファラフェルの値段がある。エルサレムのユダヤ人側では、10シェケル(約250円)するが、エルサレムのパレスチナ人地区では5シェケルだ。これがガザ地区の中心都市ガザ地区だと1シェケルから高くても3シェケル程度。一方、ラファでは0・5シェケルだ。エルサレムの20分の1である。
 ファラフェルは、最高のベジタリアンフードである。高温で焼き上げるピタと呼ばれる丸型のパンには、空洞ができる。ここに、ヒヨコマメのコロッケのほか、ポテトフライ、酢漬けキュウリ、トマト、キャベツ、玉葱の千切り、ニンジンなどを入れ、タヒーナというゴマのタレをかける。野菜だけとは思えないほど、食べ応えがある。
 ただ、ラファで食べたファラフェルには、野菜が入っておらず、ピタパンとヒヨコマメのコロッケだけだった。
 
■ファラフェルのつくりかた

材料:ヒヨコマメ、ベーキングパウダー、塩コショウ
   コリアンダー、にんにく、パセリ、小麦粉。

1、ヒヨコマメを1日ほど水に漬ける。
1、ミキサーで2,3ミリになるまで潰す。
1、材料を全て混ぜ、1時間ほど馴染ませる。
1、油で3、4分揚げる。
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